今から1200年前の平安時代、弘法大師空海(お大師様)は、真言密教を悟り、唐の国(中国)より日本へ戻った際に若杉山(奥の院)を訪れ、加持修法によって人々を救済しました。若杉山は、古来より神仏の集う霊山と仰がれており、山岳信仰や真言密教の聖地として多くの高僧や修行者が訪れ、お堂が立ち並び隆盛を極めてきたと伝えられています。
時代は流れ、天保年間(1830〜1844年)、早良郡姪浜の僧侶慈忍(じにん)が、弘法大師を訪ねてこの地を訪れたのが篠栗霊場の起源と言われています。
慈忍は、四国八十八ヵ所を巡拝したその帰りに篠栗村に立ち寄った尼僧でした。
四国八十八ヵ所の開祖たる弘法大師も訪れたと伝わるこの地で、村の人々の困窮を垣間見た慈忍はその救済を目的に、この地にとどまりました。そして、弘法大師の名において祈願を続け、やがて村に安寧をもたらしたと伝わっています。
このことを弘法大師の利益(りやく)であるとした慈忍は、村の者達に四国のそれを模した八十八ヵ所の霊場の造成を提案しました。そして、呼応した村人達の手によって徐々に石仏がつくられはじめましたが、慈忍は志半ばで没してしまいます。
慈忍の志は、篠栗村田ノ浦に住む藤木藤助(ふじきとうすけ)に受け継がれます。
弘法大師信仰の厚い藤木藤助は、嘉永三年(1850年)に村の有志と相談し、浄財を集め仏像を彫ります。そして、安政二年(1855年)、5人の同行と共に本四国霊場を巡拝し、その際に持ち帰った砂を村内の八十八ヵ所の聖地に納めました。それが今にある、篠栗四国八十八ヵ所霊場の始まりと伝えられています。
若杉山は篠栗町と須恵町にまたがり、標高は681mです。古くから信仰を集める霊峰として、多くの修行者が訪れ、崇められてきました。
その昔、神功皇后が三韓征伐への出兵する際、若杉山の山頂にある太祖宮で祈願をし、御神木である杉の枝を手折り、鎧の袖にさし御守にして戦いに挑んだと言われています。
皇后は凱旋後、この枝を鎧とともに香椎宮の境内に埋めました。すると、杉枝が茂り、綾杉と呼ばれるようになったのです。その後、皇后が太祖宮へお礼参りをする際、この綾杉の枝を分けて山に植えたことから、「分杉山(わけすぎやま)」と呼ばれ、それが時代の流れで「若杉山」と呼ばれるようになったとされています。